とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

台風とともに奈良観光

いよいよ今から、奈良に向けて出発です。
台風は、ストーカーのように我々の予定旅程を追ってやって来るようです。

普段なら、三連休とはいえ特にどこに出かける予定もなく、のんびりお家で引きこもって、ネットや読書に勤しむ暮らし。
台風が来るとなれば、多少は早めに買い物に行って買い置きをするくらい。
テレビの天気予報、台風情報を見ては、全くの他人事で「大変ねぇ、こういう日は家にいた方がいいよねぇ」などと、のんびりお茶すすっていたはずなのに。
あーあ、なんでこんな状況で旅行をしよう、と思ったのだろう。
四ヶ月前、おじさんから「出張ついでに、奈良観光でもせん?」
と聞かれた時に、何考えてたんだろう私。

でもまあ、四ヶ月も前に今のこの事態が予想できたはずもなく、多分晴れるやろ、という根拠のない推測の元「そうだね、せっかくだし」と答えていたのでした。
しかしなぁ、まさかここまでしっかり台風と旅行のスケジュールがぴったり進路をあわせることになるとは。

とりあえず、九州新幹線はまだ止まっていないよう。
ただ、雨が、、、、
テレビで見ると宮崎市は強い風が吹いて大雨になっているみたい。

でも、鹿児島市の我が家の辺りは静まり返っています。
宮崎より西にあるのに、なんで雨が落ち着いているのだろう?

猫は、恒例の朝のお出かけに出ていきました。
今日はご主人様達は帰って来ないなんて、これっぽっちも思っていないのでしょう。
呑気なものです。
大抵、旅行の時は外に出して、秘密の場所に餌を置いていきます。

以前からの疑惑なのですが、うちのお猫さん、お隣のお家でも養われている気配もある。
お隣のおじさんは、町内会の会費集めのときくらいしか顔をあわせることはないのですが、相当に猫好きらしい。

だってね以前、我が家にいた雄の白猫。
子虫が拾って来て、新しい飼い主さんを見つけるまで、という約束で家に置いていた猫でした。

ほとんど外猫状態でしたが、ある日、お隣のおじさんに
「白ちゃ〜ん♡」
と呼ばれて、なでなでされていたのを目撃したことがある。
その白猫は、時々シャンプーもしてもらっていたようで、綺麗になって、いい匂いをさせて帰って来たこともありましたっけ。

我が家であまり優遇されていなかったせいか、お隣のお家に入り浸るようになり、最終的には、さらに離れた通りの向こうの家の猫になってましたっけ。

さてそのお隣、我が家とは庭を境に接しています。
お隣の猫は三匹。
いずれも丸々と太って、色艶も良い。
猫どもは人間の作った境などは、へとも思いませんから、そこのおうちの猫達も、我が家のオンボロデッキを徘徊している。
いい具合に雑草がはびこって、通りからは隔てられているので居心地が良いよう。
我々が不在の間も、猫は猫で平穏に過ごしていることでしょう、多分。

では、秋の奈良観光旅行。
どうなりますことやら。
とりあえず、行ってまいります。

<ひとり死>時代のお葬式とお墓〜を読んで

タイトルからは、孤独死をテーマにした本かと思いますが、どちらかというと古今東西のお葬式事情を最近のトレンドと共に紹介してくれている本でした。

最近は、やっぱりお葬式も簡素化が進んでいるそうですが、そもそも、葬儀屋さんでお葬式をするようになったこと自体、高度成長期以降だそうです。
しかも、葬儀屋さんって元々は葬式用の棺や造花を扱う業者だったり、雑貨屋さんだったりするそう。

日本のお葬式自体がものすごく短いスパンで変わってきているのですね。

外国のお墓事情も面白かった。
土葬が主流の欧米では、墓地はリサイクルが当たり前だそうですね。
使用期限つきで使用料を払って、期限が来たらお墓から取り出して、まとめて納骨堂に納めるそうです。

日本でも、お墓に入れずに納骨堂に納める、というのは前からあるけれど、最近の納骨堂は、機械で骨壺を自動搬送して祭壇に出してくれる形式のものもあるそうで、なんだか、貸金庫みたい。
知らなかったのですが遺骨も、全部持ち帰るところと一部だけ持ち帰って、あとは産業廃棄物として業者が捨ててしまうところと、同じ日本でも違いがあるそうですね。
また、遺骨をお墓に収めなくてはいけない、と言いう法律も実はないのだそう。
だから、小さなお子さんを亡くした方などは、お墓に入れるのは可哀想だからと、遺灰にして家に置いたりするそうです。
その気持ち、わかるな。

ところで火葬が多いイギリスでは、さらに進んで、墓地も墓石をおかず、公園のような自然のところに散骨するケースもあるのだとか。
特殊な処理をしてコンポスト化する方法もあるのだそう。
結局、火葬するにしても有害物質は出てしまうので、死んでまで環境汚染をしたくない、という人たちに支持されているそうです。

私も、公園に散骨、がいいな。
コンポスト、というのも、ちょっと伊邪那美命っぽくていいかもしれない。島の風葬みたいですね。
実際はもう少し、ドライな感じらしいですけど。

結局、お葬式とか喪というものは、本人がどう思っているかより、遺族や世間様がどう思うか、なのでなかなか自分では決められない。

地域の住民が助け合ってお葬式を出していたのが、従来の日本のお葬式だそうです。
だから、これが正しい、というのはなくてその地方独特のものが結構ある。
よその人には、非常識なことがその土地の常識だったりする。

そして、仏式でお葬式をすると、七日ごとにお経をあげてもらって、四十九日すぎて納骨、というのは、遺族のその後の生活を定期的に見守るとか、悲しみを和らげるというグリーフケアの意味合いもあったのだそう。

でも、地域の繋がりが薄れて来た結果、葬儀を専門に執り行う業者が入るようになり、お坊さんの供養もなんだかお金もうけ主義に走っているようで、いい印象がありません。

地域の繋がりが薄れているなら、いっそスウェーデンのように、葬式保険(介護保険のお葬式版みたいの)を強制的に徴取して、行政がお葬式をあげてしまう、というのもいいのかもしれません。

要は、人が亡くなった時に、どんな風にそれを受け止めて行くか、なのだと思うのです。
決まった形がないだけに、あれこれ言う人もいるわけで、それが面倒なので、一応、忖度して形式だけ整えるけど、後から「なんか違う」と不満を感じる。

死んだあとは、自分ではどうしようもないから、あとはお任せするしかないのですが、「そのとき迷惑をかけるから」と言うような社会はおかしい。
と著者は言います。

迷惑などではなく、いつかは自分もそうなるからと、お互い助け合えるような葬儀の出し方、お墓の扱い方ができる社会で死ぬのが、一番良いのだと思いました。

日本の古建築 美・技術・思想 &ここが見どころ古建築〜を読もうと悪戦苦闘中

ひょんなことから、奈良に行くことになりました。
この週末の三連休です。

と言って、日本史に興味があるわけでなく、観光にもそう興味があるわけでもない。
お寺と神社の区別もようつきません。

だけど、ホテルも航空券ももう支払い済み。
ということで、元京都住民の姫虫に相談したら、この本を読みなさい、と課題を出されました。
しかし、出発が近づいているというのに、まだ読み終わらない(泣)。

日本の古建築 美・技術・思想

早稲田大学の元教授がお書きになった本です。
副題の通り日本の有名な建造物が、法隆寺に始まり古代から中世を経て近代まで取り上げられ、その美や技術や思想が述べられています。

硬いです。
専門的です。
もう、最初の方の法隆寺を読むだけで、息切れしてます。

「身舎は中央間一間と脇間二間とで、三間柱間である。柱の上には大斗があって、肘木が載る。そして組み物が柱の中心から一手、二手、三手というふうに出ていて、これを「三手先」という。この三手先組物を横から見ると、システム化が萌芽的に進み、組物の形式化が始まっているのが読み取れるけれども、まだ頑強な力の流れも現れていることがわかるだろう。」

日本語だよね? これ。
単語、単語は読めるのです。
てにをはもわかるのです。
漢字もそこはかとなく意味が伝わる。
でも、何を言っているのかさっぱり(==;)

さらにさらに、専門用語と思しき単語が容赦なく出て来ます。
建築関係の学生さん向けです。
一行読むたび、目眩と眠気に襲われます。
もう、見に行かなくてもお腹いっぱい、な気がして来ます。

ブラタモリみたいに、どこぞに親切で、博学で、説明好きで、誰にでもわかるように解説してくれる方は、居ないのだろうか?
な、訳ないよね。
無理だよね。

息抜きになるかと、念のため、もう一冊購入しておいた。

ここが見どころ古建築

こちらは、裏ネタっぽい話が載ってます。
ワタシのような無知な観光客向け、だと思います。
こっちを読んで、とりあえず見どころだけでも見てこようかと思います。

思想云々は、帰ってからゆっくり読もうかと思っています。

だって、どうやら土日はしっかり台風が本土を直撃する模様。
予習してても、観光どころじゃないかもしれない。
と、思ったら、もうすっかりやる気無くしているのでした。

良いのさ、建築なんて雨風防いでくれて、そこそこ快適ならば。
そこに思想とか、美しさは求めないのさ。

ウクレレ教室 3回目


さて前回は、チューニングのやり方、というものを習いました。
で、宿題は「チューニングをして、あとは適当に弦をかき鳴らしておいてください」
という、なんかいい加減なもの。

ええ、良いのですよ。
所詮は50の手習いですからね。
仰せの通りに。

私の持っているチューナーは、ウクレレを買ったときについてきたもの。
まあ、おまけみたいなものですね。

目的とする音を弦が発すると、緑色にピカピカ光る。
これが、大あた〜りぃ!と言ってくれているみたいで、ちょっと嬉しい。

なので、時々思い出してはチューニングとやらをやってました。
ついでに、ネットで音階の載っているサイトを見つけて、ポツリポツリとドレミを弾いて見たり。
いえいえ、ドレミと言ってはいけないのでした。
CDEなのですね。
めんどくさい。

さて、チューニングができるようになったので、いよいよウクレレを弾くことになります。

と、その前に、持ち方を教わる。

ウクレレは右の肘で抑えて身体に固定します。
肘は布があると擦れてずれやすくなるので、長袖着用時は腕まくりが必須。
なるほど、常夏のハワイの楽器ですものね。

そして、ボディの真ん中らへんに丸く空いている部分(ホールですな)が身体の中央部に来るように、構えます。
そして、弾くときは親指で弾きます。
他の指でボディを持って支えます。
ネック部分は、あまり持ち上げないこと。
(単純に見苦しいから、だそうです)
弾いているうちに、だんだん位置がずれたり、持ち方が歪んで来るので、毎回、最初に戻って持ち直すように。
と教えていただく。

次回、いよいよコードを弾くことになります。

コードを弾くにあたっての注意事項。
コードは、フレットを左の指で抑えて弾きます。
フレットを抑える力は、全力で抑えた時の約60%。
抑える場所や力の加減で、澄んだ良い音が出なくなるので、良い音が出る力加減や、抑える場所を覚える必要があります。

四つの弦を、一気に弾いて音を出すのではなく、最初は一つ一つ弦を弾いいて、澄んだ良い音が出ることを確認し、その後に、親指でポロロ〜ン(とテキストに書いてある)としっかりそれぞれの音が出るように、弾きます。

というところで、今日はおしまい。


多分宿題は、今日のテキストに載っていたコードを覚えて来ること、かな。

とりあえず道に立った、というところでしょうか。
一歩一歩、亀の歩みで歩いていきます。

うっかり間違えて、ディナーメニューしかないイタリアンレストランに

うっかり間違えて、ディナーメニューしかないイタリアンレストランに一人で入ってしまった時って、どうすれば良いのだろう。

ウクレレ教室に行く前に、ちょいと腹ごしらえをしようと思って、とあるパン屋さんの二階にある、イタリア料理のお店に行ったのです。

ここは、以前ランチを食べにきて、パスタもピザも美味しかったので「また軽くパスタでも」と思ってたのだけど、席に着いてメニューを見たら、「えっ⁈」ってなっった。

しまった(汗)、ここってかなり本格的な”ざ・れすとらん”だったゎ〜

さて、どうしよう。
もう座っちゃったしな。
「ごめんなさい、間違えましたっ!!」
て、出るか?
一瞬、逡巡する。
どうする、私。。。

今更、出るのも変かな?
だけど、前菜、揚げ物、メインにピザとか、一人で食べきれる量じゃないぞ。
相方のおじさんと一緒でないと、絶対に無理。
おまけにメイン料理はふたり分から、じゃないか(´・_・`)。
一緒に頼んでね、的に置かれたワインリストが、じわじわとプレッシャーをかけてくる。

でもね、こちとら天下のアラフィフおばさん。
伊達に面の皮は厚くないのです。
しれっとして
(るように見えてるはずさ、きっと)
サーモンとイワシのマリネサラダに、ライスコロッケをオーダー。
ついでに、ピスタチオのジェラート
はっきり言って、前菜のみで終わり。
メインも、ピザも、すっ飛ばし。
この時点で、
『このおばはん間違えて来おったな』
(こういうシチュエーションには、関西弁が一番しっくりくると思う)
とウエイトレスのお姉さんにも、お店の人にも分かったはず。

良いのさ。
それでもお客だよー。
幸か不幸か、本日は平日にて、お客はカップルが窓際の席に1組のみ。
ここは、開き直るしかない。

やがて美しく盛られたサラダがやって来た。

「サラダはサーブしますか?」

と聞かれたのだけど、サバがどうたらと聞こえて、焦る。
確かイワシとサーモンのサラダだったよね?
鰯がないから鯖で良いかって言われたの??
そういうのって、持って来てから言うこと???
一応、今の日本語だよね????

もう一度聞き直す。
しばし、沈黙。
のち、意味が通じる。

一人で食べるんだし、お皿も小さいし。
サーブは要りません、とお返事する。

ライスコロッケは、すんごく小さくて、やっぱ、これも前菜だよね。
でも、一応ナイフとフォークで、メインを気取っていただきました。
ピスタチオのジェラートも美味しかったし、小さじ2杯分くらいのエスプレッソも美味しかったのですが、お会計はしめて2500円也。
やっぱり、軽く食べるお値段じゃないですね。

あとで考えたら、ピザ一枚注文して済ませても良かったのよね。だけど、一枚二千円越え三千円近のピザとかちょっと、、、。
ものすごく大きいのが来て、食べきれなかったら、それも嫌だし。

あああ、なんか変な注文の仕方だったな。
お店の人たちの暖かい笑顔が、痛いわっ。

まあいいや「今回は痛かったけど、良い勉強をした」と思うことにしよう。
幸い家族は誰もこのことを、知らない。
このまま黙っていようっと。

そして今度は、ちゃんとおじさんとデートで来よう。
ワインも頼める格好でねっ。

と、思いつつウクレレ教室3回目へと、急ぐのでした。

日本語がわかれば英語はできる〜を読んで

日本語の発想で安易に単語や構文だけ置き換えて英訳すると、誤解を招きますよ。
という話。

間違えやすい、誤解を招きやすい例文とその理由も含めて記載されています。

ビジネス場面で使われる例文が、主に載っているのでお仕事でいきなり英語を使わなくてはいけなくなった、でも、英語にあまり慣れていないの、という人に向いていると思います。

見開き1ページに、例文と解説、補足が載っていて似たような文章を書きたいときに、参照にするのに便利そうです。

あまり意識していないけど、実は日本語特有の言い回しでした、という文章も挙げられています。

日本語のいい回しと英語とが違う、ってことはわかっているんですよ。
日本語は主語が省略されがちだってこともわかっているんです。
でも、それ以外の細い表現だったり、英語の単語が持っているニュアンスだったりは、個々の場面や文章でいちいち覚えるしかない、というのが現実です。

いちいち覚えらいし、暇なんてないし、そこまで英語好きじゃないし、という人には、「こういう時はどう言えばいいんでしたっけ?」みたいなときにちょっと使えて便利だと思う。

でも、同じような趣旨の本はたくさんあるので、実際に本屋さんで立ち読みして見て、自分が使いそうな表現とか、必要そうな場面に近いものをたくさん取り上げている本を選んだ方がいいと思いました。

私がいいなと思うのはこちら

レビューも評判いいし、英語学習ブログでもよく推奨されています。
イラストや漫画付きで、英単語の持つイメージが説明されているので、ちょっと息抜きにもなる。
さすがに、読み物としてはちょっと重たいですが、トイレとか手元に置いておいて時々、読むといいかも、と思ったり。

もちろん、文法書なので必要に応じて調べたり、参照にしたり、という使い方もできます。

同じ、買うならこっち、かなぁ。
載っている例文を使う頻度が高いとか、よく参照にするとか、そういう事情があれば、二冊購入でも良いかもしれません。

英語は、なかなか日常では使わないので、意識していないと勉強しないです。
特に和文英訳は、一番大変だし、一番苦手。
意識して、時々読むよう心がけようと思います。

怪物はささやく〜を観てきました

前から予告を見ては気になっていたこの映画。
おじさんが、映画でも観に行こうよ〜
と言うので、では「こちらでお願いします」とたってのお願いで観てまいりました。

こう言う文学作品ぽいのが、苦手なおじさんは
「ジェラシック・ワールドの続編を作る監督らしいよ」
と丸め込みました。

ストーリーはシンプルです。
イギリスのとある片田舎で母親と二人で暮らす12歳の少年が主人公。
母親は末期がんで、治療薬を色々変えて試しているけれど、もう先が長くないことは誰の目にも明らか。
でも、少年と母親は次の薬なら効果があるのではないか、と希望にしがみついています。

一方で少年は、毎晩のように悲劇的な未来を暗示するような悪夢を見ています。
寝不足気味で、食欲もなく痩せて、顔色悪いし目の下真っ黒で、いかにも不健康な暮らしをしていることが伺える少年。
表情も硬くて、とても周りから「可愛い」とか「手を差し伸べてあげよう」などと思ってもらえなさそうな子です。

母親と少年の世話をするために、やってくる母方の祖母。
厳しい祖母に少年は馴染めず、祖母も反抗的な少年を煙たく思っている。

学校では、同級生からのいじめに遭っています。
が、先生も他の同級生も見て見ぬ振り。
離婚してアメリカに行った父親は、会いには来てくれるけれど、休暇にはアメリカにおいでと言ってくれるけれど、少年を、再婚家庭に引き取る気は無い。

なんかもう、八方塞がりの状態。

舞台となっている、いかにもイギリスの村、という感じの風景が、また重っ苦しくて、じめじめしていてじわじわくる。
雨粒一粒まで重さを持っているようです。

少年の唯一の楽しみは、自分で絵を描いて過ごすこと。
夢中になりすぎて、深夜を過ぎることもある。

ある晩、裏庭の向こうの墓地のある丘にそびえるイチイの木が、少年の元に歩いてやってきます。

そして、三つの話を語ります。
最後の四つ目は少年が語らないといけない。

もう話の始まりから、これは少年が母親の死を受けれ入れて大人になっていくためのファンタジーなのだろうな、と予想がつきます。

どんな風に受け入れがなされていくのか、そこが興味深いわけで。

ところが、イチイの木が語る三つの話も、ありきたりのストーリーと思いきや、実は裏があって、おまけに全部語られることもなく、すっきりしない。
おまけに語り手のイチイの木は、「それが人間だからね、人間は複雑なんだ」と言って澄ましている。

パンズラビリンスでも思ったのですが、スペインやラテンアメリカ系の監督さんが作る作品って、子供に厳しい。
主人公に厳しい。
ついでに観てる観客にも厳しい。

補助輪なしでいきなり自転車に乗って、さあ走りなさいって感じに、それで転んでも自分で起きなさい、怪我して痛かったら自分で泣いて癒しなさい、という感じに、厳しい。

でも、それが現実。
だと思うのです。

そういえば、この監督さんもパンズラビリンスの製作にも関わっていたそうですね。
監督のギレルモ・デル・トロとも親交が深いとか。

そういえば、ゼロ・グラビティもレヴェナントもメキシコ出身の監督でしたっけ。
どちらも、ラストはなかなかに主人公に厳しい。
こんなに苦労した主人公に、その仕打ち?
と思わず突っ込んだっけ。


映像は、とても綺麗です。
こういうスペイン系の重厚な映像美は本当にはまってしまう。

ギレルモ監督は、パンズラビリンスを始め、ヘルボーイパシフィック・リムも独特の映像がなんともいえなくて好きでした。
金属を思わせるような重みと厚みがあって、どこか冷たい。
色彩とか、形状とか質感に対する感性が違うのでしょうね。

怪物はささやく」の映像は、ギレルモ監督とはまたちょっと違っていたけれど、やっぱり良かった。

祖母の家の、イギリスの中産階級の気取っていて、こちゃこちゃした感じのインテリアも良かった。
個人的には少年のお母さんが最期に横たわっていた、いかにも家から持ってきました感のあるタオルケット(?)が印象に残りました。
他にも、家の周りに生い茂る手入れされていない潅木とか雑草とか。
裏の丘に生えているイチイの木とか。

お母さんが入院する病院も、アメリカ映画のようにハイテクではなく、かと言って歴史のありそ気な石造りというわけでもなくどこにでも、日本の町にも、ありそうなごくありふれた古ぼけた病院。

さてこの映画、子供が出てくる現代が舞台、の映画だと思うのですが、一つ決定的なものが欠けています。

映画の世界観を表現するために監督があえて、排除したのか知らん。
原作者自身が脚本も手がけたそうですね。
それでなのかな?

さて、何が欠けているのか。
終わりの頃に、ふと気がつきました。
それは、ゲームと携帯。
主要人物だけでなく、エキストラで画面に映り込む誰も持ってません。
てか、電話をかけてるシーンもない。
どこか不思議な印象が残る映画なのは、そのせいかもしれません。


見終わって、また折に触れて思い返してしまう、そんな映画でした。

私としては大満足、だったのですが、いまいちすっきり感ないおじさん。
「結局、あの子は母親が死ぬって知ってたの?最後のシーンはなんだったの?」
って、いや、そこは別に考えなくていいところだから。

次回は、おじさん推しの「関ヶ原」でも観てあげましょう。