とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

男も女もみんなフェミニストでなきゃ〜を読んで

この本の著者は1977年生まれ。
ナイジェリアで生まれ、アメリカで教育を受けています。
こんな人でさえ、母国ナイジェリアは仕方がないとしても、アメリカでも女性が差別される場面や、女性が事前に男性を優先する行動を取るという場面に出くわしては、うんざりしています。


結局、どこの国、文化にいても大して変わらない。
時には、逆行しているのじゃないか、と思うようなことだってあります。
そう言えば、マララ・ユスフザイは、女の子も学校で勉強する権利もある、とブログに書いて撃たれたのでした。

最近の若い女性や女子大学生が、専業主婦を希望するのは、いくら頑張ってもガラスの天井はいつも覆いかぶさっているくせに、ハンデのありすぎるゲームのくせに、聞こえの良いところだけ平等という名の下にやらされることに、うんざりしたからかもしれません。

いくら、親の世代よりも自由度は増した、と言われても、やっぱり不利なルールだらけのゲームじゃん、やってられないよ。
と、思うからかもしれません。


もう、フェミニズムとかフェミニストといった言葉が死語になることなんてなさそうです。

ただこの本を読んで、その意味するところ、使う人の意識は変わっているのかな、とは思った。

著者にとってフェミニストとは、
「男性であれ女性であれ、『そうジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね、もっと良くしなきゃ』と言う人です」


著者も、私が感じた事と同じような疑問を持っています。
例えば、デートのときには、いつも男の子が支払いをしなくてはいけない風習。
男性が、女性よりも沢山収入があるべきだという風潮。

バイト先に事務をしている男性がいます。
元々、大学では児童心理学を専攻したそう。本人も子供好きで、幼児教育を学びたいと保育士の資格を取り、保育士になったそうです。
でも収入が少なすぎて、家族を養うのは無理だとおもったそう。
それだけでなく、やっぱり、周りから男性なのに何故に保育士?と言われ続け、職場でも色々やりにくい思いをしたことがあって、結局、辞めて転職し、今に至るのだとか。

なんだか、せっかくの意欲も才能もあった逸材を、社会は育てるどころか潰してしまってないでしょうか?

フェミニズム=女性側だけの問題、では無いのだと思います。

著者は、きっぱり明るく言っています。
みんなで、考えよう。そして仲良く社会を作ろう。

アフリカ出身の作家さんの作品は、この人以外にもノヴァイオレット・ブラワヨという女性の本を読んだことがありますが、彼女たちの文化なのか、文章や表現の仕方が、とても明るくて、どこか乾いている。

もしかしたら、読みやすくてシンプルな文章なのは、彼女たちにとっての母国語ではなくて、英語で書かれているせいかもしれませんけど。

私は、この本を読むまでは、あまりフェミフェミ言いたくない気がしていました。

前の記事には書いちゃったけど、どうしてもフェミニズムについて話そうと思うと、どれだけ女性が差別を受けているか、そのことに、男性を始め女性自身でさえ時には、どれほど無自覚でいるか、みたいな話を延々と並べることになりがちだからです。

それに女性だって、男性に対して差別、してますよ?

でも、彼女のからっとした語り口は、なんかじめじめした恨み節とは違うアプローチで、お互い話ができそうで、良いな、と思ったのでした。