とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

怪物はささやく〜を読んで


先日、映画で観た『怪物はささやく』。
原作があると言うことで、図書館で借りてきました。

映画の脚本も、原作者が手がけていた、と言うことで原作と映画がそれほどかけ離れていません。
登場人物の心理描写が、より細かいことくらいでしょうか。
映像だと、どうしても観ている人の感覚とか感情とかも入り込んでしまうし、同じ表情でも文化の違いで受け取り方が違うこともあるだろうし。

細かいところと言えば、主人公のコナーが、おばあさんを怒らせて罰に怯えるシーンで、「刑務所に送られるか、もっとひどいことに寄宿舎に入れられるかも」と言っているところが面白かった。
あっちじゃ、寄宿舎ってよっぽど嫌なところなんですかね。

作品自体、元々はシヴォーン・ダウドと言う作家さんが原案を作っていて、ただ、作品にする前に亡くなってしまったので、彼女のファンが中心になって(だと思う)フィリップ・ネスという作家さんに作品にしてもらった、とうちょっと変わった来歴の物語。
だから、シヴォーンとフィリップの合作なんだけど、二人は面識がなかったらしいので、作品を通じての精神的な母ー息子の作品みたいな感じかしら、と作品の主人公とその母親との関係性と絡めて深読みしてしまったりして。
そう思うと、映画でのラスト・シーンは象徴的な気がします。

原作では、映画では存在すらしていない、リリーという幼馴染の女の子が結構重要な役割を果たしています。
いじめっ子のハリーの性格もより深く描かれていて、こういう人物をサイコパス、というのかも、と思ったり。

おばあさんはより厳格な人物として描かれていますが、その人間性も合わせて、シガニー・ウェーバーがいい仕事をしていたと思いました。
シガニー・ウェーバー演じるおばあさんを、思い描きながら読むとわかりやすい。

本作品は、原案をシヴォーンが作っていて、それをフィリップが本にしているので、設定とか登場人物には多少の制限があったのだと思うのです。
一方で、脚本をフィリップ・ネスが担当したということですから、映画の方がよりフィリップの作品に近いのかな、という気がします。
そういう意味でも、原作にはない映画のラスト・シーンは重要な気がする。
映画でリリーが消えているのも、母親の人生が語られているのも、最後で、アーティストだった母親の作品が紹介されているのも、フィリップの創作が強く反映しているのではないかしら。

原作ー映画と比べてみると面白いです。
映画のノベライズではなくて、どちらも独立して文学作品となっている。
どっちが優れているとか、ではなくて、それぞれの表現の特徴と限界を、味わい分けるとより楽しめると思います。

映画の怪物も、原作のイラストを担当したイラストレータさんが担当したそうで、そう意味でも映画と原作の世界観がずれることなく、でも、違う作品として楽しめる。

大抵は、原作と全く違う映画になってるとか、所詮は原作を超えられないとか、どうしても原作のある映画は、どちらかに不満が残りがちですが、この作品は、原作も映画もどっちもいいと思いました。
そういうのは、ちょっと珍しいように思います。

DVDが出たらもう一度観ようかな。