とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

今年の連休

ここ数年、ゴールデンウィークはなんとなく過ごしておりましたが、今年は少々事情が違いました。
三月に亡くなった舅の納骨と四十九日があったのです。

今回の記事も私の個人的な感想を書いてます。
不信心者の故、信心深い人や一部の方にはもしかしたら不快で苛々するような内容かもしれません。
あらかじめ、お断りを。

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さて普通だったら、多分、ちょこっとお経を上げてもらってあとはお墓に収めて終わり、なんだと思うのですが、そこは義姉と義母の帰依するお寺さんが密教系なだけに、そうは問屋が卸さない。
今回は二日間に渡っての法事と相成りました。
それも連休ど真ん中。
今年も職場は暦通りの休みでしたので、実質休みになったのは3日から6日の四日間でしたが、その中二日ががっつり法事に費やされました。
こればっかりは家族である以上、義務、みたいなものですから仕方がないといえば仕方がない。
これでも、駄目嫁としての実績もあって随分免除してもらってはいたのです。
が、今回の二日間はしっかりお付き合いさせられました。

仏事には疎いのですが、こちらの宗派では色々と形式やお作法に力を入れておられるらしい。
仏壇の設置からして、庵主さん自らお出ましになり細かく指示が入ります。
お弟子さんと義姉とが(他の人間は役にたたなすぎなので)指示に従い、”正しい形”の仏壇にする。
読経に、神式のようは祝詞っぽいセリフが入る。
最後は、五体投地(?)して床に這いつくばり、さらに祝詞らしきもの(お経ではないやつ)。
その後、庵主さんとお弟子さんとは家で、義姉と義母が用意した軽い軽食をいただき、納骨堂へ。
またもや、一連の”お儀式”。
こういうのって、他人様のを眺めているとか、映画”空海”を見るとか、はたまた夢枕獏の小説を読んでいる分には面白くて良いのですが、宗教心のない身には少々辛いものがある。
それでも、その日は朝十時に始まって午後二時には解放。
しかし、その後は義母の家でお昼&おしゃべりが延々と続く。
今回は義姉のところから甥っ子が一人手伝いに駆けつけて来てました。
エリートサラリーマンである甥っ子は、愛車のBMWで庵主さんの送迎を担当。
道中のお相手も勤めます。
子供の頃から通っているお寺さんなので、それほど苦痛ではないらしいので良かった。
うちの子虫も徴用されていたのですが、奴は相変わらず要領が悪くて、遅刻。
まあ私同様、いなくても構わない人員ではありました。

さて、翌日は法会(っていうのですかね?)を、お寺で行うため家族で車でお寺に向かう。
駐車場には、作務衣に身を包んだ男衆が数名誘導していました。
その中には、同じように作務衣を着込んだ義兄の姿も。
そうなのです、実は義兄もこのお寺の熱心な信者さんなのでした。
お寺の中にはすでに、百人くらい(?)信者さんたちが広いお堂に座っています。
膝に問題のあるお年寄りが多いためか椅子に腰掛け、あとは車座になって畳の上に座っています。
その間を作務衣姿がの信者さんたちが、ウロウロと準備に余念がない。
私たちもその一角に座るよう指示されます。
みんなの前には特大のお数珠が。
数珠玉の大きさが一つ軟式野球ボールくらいあります。ロープに近い太さの紐で繋がれた数珠が、ぐるり一周している。
信者たちはその数珠玉を持って膝の上に置いておくことになっているらしい。
それで、数珠の内側に入る時は、跨いでは行けなくて潜らないと行けない。
作務衣姿の信者さんが年中数珠の内外を出入りするので、その度にその数珠を持ち上げる。結構重い。
そうこうするうちに、正装に身を包んだ庵主さんがやって来て、お式が始まる。
お弟子さんの一人が、お寺のモットーみたいのを唱え、信者さんたちが一斉に唱和する。
ついで、読経。
はんなはらみだ、とか、まんなのうきゃろみ、とか。
夢枕獏っぽい。
そういえば、唱える時の手も普通に合掌するのではなくて、なにやら難しい動きで指を重ねたり印を結んだり。
さすが信者さんですね、みなさん当たり前のように唱和されてます。
目を閉じて一心に唱えておられます。
昨夜遅く着いた子虫が『なんかちっちゃい頃やらされた記憶が蘇って来たわ〜』と呟く。
仕事で義姉や姑に預けていた頃、よく連れてこられていたらしい。
どおりで上の子虫は帰ってこなかったわけだ。こう言うの私以上に、嫌いだもんね。
さて、今回が初体験の私はアウェイ感この上ない。
でもきっと、この儀式を行うことで心が洗われる人もいるんろうなだな〜とは思う。
確かに義姉夫婦と姑は感じ入った表情で唱えてましたし。
甥っ子は、苦行に耐える若い修行僧のような顔で目を閉じてましたが、これは昨夜相方のおじさんと遅くまで飲んでたからかもしれない。

目立ちたくないので、椅子は遠慮したのですが始まって数分で正座のままで乗り切るのは不可能と悟る。
『いいや、信者じゃないし』と割り切って、ささっと膝を崩す。
私の隣は、髪を茶色に染めた若い女性でしたが、スキニータイプのジーンズを履いていて『大丈夫だろうか?』と他人事ながら心配していたのですが、彼女も膝を崩している。
そういうことには寛容なお寺さんのようです。
参加者全員が朗々とそのお経を唱えているのを聞くと、賛美歌の一種のように聞こえなくも、ない。
お経は一回唱えて終わり、ではないらしく延々と繰り返されます。
うねるように強弱をつけて唱えるお経を聞いていると、頭がなんだか麻痺したようにぼんやりしてくる。
薄暗いお堂の中で、ごまやらアヘンやらを焚いていた時代は、これだけで法悦に浸れたのかもしれません。
さて、読経の後は祝詞(?)みたいのが続く。
誰がどうしたこうした、みたいな言葉の合間に、やたらと『ありがとうございます』と『もったいのうございます』を挟むのがお約束らしい。
○○家のご先祖様ありがとうございます、もったいのうございます。
さらに、『はいはい』とか『あーよかったね、よかったね』が合いの手のように入る。
ちょっとラップぽい。
そして、さらに畳み掛けるように『ご先祖様がね、喜んでね、おられますよ』『ありがたいお供え物、ああよかったよかった』みたいな言葉が入る。
普段から『ありがとう』『良かった』みたいな言葉はよく使うようにしておりますが、それでも半年分くらいの『ありがとう』と『もったいない』と『良かったね』を聞かされた気がする。
後は、お弟子さんの木魚と金の音頭ででっかい数珠をぐるぐる回す作業。南無阿弥陀仏と唱えながらするバージョンと、なんまいだーと早く唱えながら回すバージョンとがあって、早くなったりゆっくりになったり。みなさん、目を閉じて真剣な表情で回してます。
数珠がちゃんと回るように、作務衣の男衆が数珠のところどころを持って誘導してくれるけど、それでも手が痛くなる。
合間に、庵主さんが羽根ばたきみたいの(違うと思いますがそくり)で参加者の頭や肩を払っていく。
最後は、また五体投地(?)して全員床に伏せ、庵主さんが仏様に報告(?)するのを聴く。
どこかのご家庭では、一度道に迷ったお子さんが心を改め大学に行き直したことを感謝してます。
他には病気したけど、無事に社会復帰できました、という話とか。
その手の話が続く。
やっと終わったと思ったら、今度は庵主さんのお話。

なるほど信者さんのほとんどが女性ですから、家庭での不幸や、子育ての悩みなどを仏様にすがることで和らげる、というのがこちらのお寺さんのやり方というか、伝道方法のようです。
悩みを抱えた人には、まず『あなたは一つも悪くないのよ』と言い切ります。
悩んでいる人の悩みのほとんどが、家庭のことだったり子育てのことだったり、確かに、個人ではどうしようもないことばかり。経済的なことだって、大抵の女性は夫の稼ぎに頼るしかなくて、個人ではどうしようもなかったわけですし。
一人で悩んでいる孤独な女性には、その一言だけで救われたような気がするのだ、と思います。
では、なぜ悪くないはずの私がこんなに苦しんでいるのか?
という問いに、お寺さんの教義はこう答えます。
『それはあなたのご両親や先祖様がきちんと仏の教えを実行しなかったから、仏様が警告として、今のあなたに不幸をもたらしているのです』
親の因果が子に報い、ってやつですね。
直近の親族が熱心な信者だったとしても、何代か前に遡れば、あるいは親族の中を見渡せば、誰か一人は不信心な人間がいるものですから、悪くない戦略です。
私なんて、絶対、お手頃なんだろうな。
さて、続いてその親族やらご先祖やらが仏の道に背いていたことを贖罪する為に、信者さんが頑張って正しい信心を行うことで、仏様が物事を改善してくれる、のだそう。
これだと、物事がうまくいくのは信心をしたから、うまくいかないのは信心が足りないから、ということになり、絶対負けない必殺商法。
信じた人は救われる、そのまんまです。

そうして信じた親御さんなり妻なりが、心穏やかになれて諍いが減れば、反抗していた子供や逃避していた夫の心も戻ってきてくれて、家庭も円満になり、物事もうまくいくようになるはず、ですし。

最後に庵主さんが言います。
『今日のお行を行ったことだけで、安心してはいけません。お行は、あなたの孫やその先の子孫のためにもなるのですよ』
なんと子や孫の将来まで仏の人質。
と、考えてしまうのは私が不信心ものだから。
この庵主さんは、悩める女性たちのカウンセラーも積極的に行っています。
なので、義姉から我が家の事情もすっかり筒抜けで伝わっている。
立ち話でもかなりピンポイントで、思わせぶりなことをおっしゃいます。
それが義姉夫妻からすると『さすが先生、見抜いておられる』となるんだけど、私からすると『またですか?ほっといてくださいよ』となる。
ごめんなさい、どうもこう言うの苦手なんです。
義姉は、息子が二人とも勉強がよくできてエリートサラリーマンになったのは、お寺の教えに従ったおかげだと感謝しているし、子育ての大変な時期には心の支えになったのだろうから、それは全然結果オーライで良いと思うのです。
でも、私はそう言う教えには違和感を感じるので、なるべく近づかないで暮らしたい、と思うのでした。