とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

祭祀という問題



早いもので、義父が亡くなって一年が経とうとしております。
そしてやってきた一周忌。
命日は確か17日なのだけれど、例のお寺さんの都合で今日することに。

申し訳ないけど、私はお仕事、ということにさせていただきました。

義父を偲ぶことに、いささかの異論も異議もないのではありますが、義姉や義母の信心するそのお寺さんが(というか、そのお寺の庵主さんが)どうにも苦手、なのです。

先祖の振る舞いが、今を生きる自分たちの不幸を招いており、今の私たちが不幸なのは、誰だか知らない先祖の誰かが仏の道に背いたから、だとか、その不幸を正すためには(庵主さんがいうところの)正しい仏の道を実践し続けること、だとか。
そうすれば、DV夫もニートの息子も心を入れ替えて真っ当な人間になってくれる、という教えは、どうも私にはついていけない。
それを強要されるのも嫌だし、うちの子供達は庵主さん的には、不幸&不忠の子供達なのだろうけど、そしてそれは私の言動が悪いからなんだろうけど、それをいちいち当てこすられるのもうんざり、なのです。

いつだったか、その手の説教の時に、”ある開業医の奥さんは、いつも信心しているフリだけで心のこもった行をしないでいたら、息子がグレて学校を辞めて、居酒屋のバイトを始めたので、(奥さんが)心を入れ替えて、信心深く行に励んだら、息子が医学部に入るといい出して、何年か浪人したけど医学部に入り、今では立派なお医者さんになりましたとさ”という話を、していた。
わたし的には、医学部に入るのが仏の道なんか〜い、とか、居酒屋で働くのはダメで、医学部に入るのはいいのか??とか、結局頑張ったのは息子だろうが〜とか、いっぱいツッコミどころはあったのだけれど、居合わせた人々が真剣な顔で聞き入っていたので、黙ってました。

というわけで、私は絶対、欠席させていただく旨、相方のおじさんには伝えていた。
おじさんも、私が庵主さんが嫌いなことをよく知っているので、まあ、黙認。
とはいえ、少々、気まずい感じにはなりました。

相方のおじさんと一緒になって、ほぼ四半世紀。
今更、愛情たっぷり、とは言い難いけど、まあまあ、喧嘩もせずに暮らしております。
月に何度かは、一緒に映画を観に行くし、時には奮発して温泉旅行に行ったりもしてる。
お互い、相手の嫌がることはあらかじめ回避する、という非常に消極的はあるものの効果的な戦略を取ることで、培ってきた友好関係、とでもいいましょうか。

それが、どうもこういう”家”が絡むこと、ついでに宗教が絡むことになると、微妙にささくれだってしまう。

以前通っていた英会話教室の先生は、イギリス出身でしたが、お母さんがアイルランド人、お父さんがイギリス人だったそうな。
お母さんはカソリック、お父さんはプロテスタント
先生自身は、お母さんの希望でカソリック系の学校へ進学したそう。
だけど宗派が違うことを承知の上で結婚したから、揉めたことはない、と言っていたっけ。

あらかじめ、覚悟していると揉めないんでしょうかね。
過去に血で血を洗うような紛争を経験している分、現代の人々の反応は、大人、なのかしらね。

だけど私たち日本人はそもそも、宗教が違う、とか宗派が違う、とかあんまり考えて結婚決めてないしな。
と思って、ネットの相談事をのぞいてみると、割と多いみたいですね。
お互いの家のしきたりの違いで、拗れちゃうのって。
特に、お墓とか葬式関係が絡むと面倒臭いらしい。

そういえば、私たち母娘も父が亡くなった時に、何だったかでうっかり親族間の礼を失することを、しでかしたらしく(誰かの前に、誰かに連絡を入れるべきだったのに、順番を飛ばした、とかで)、とある親戚の女性から絶縁されたことがあったな。
父がいたら、誰が小煩いことを言いそうか、あらかじめ予想して対応できたのでしょうけど、その父の葬式でしたのでね。
もともと少々気疲れする人だったので、絶縁されても痛くも痒くもなかったし、かえって良かったよね、と母と笑ったものでしたが。。。。
その節は、失礼しましたm(._.)m

死者をいかに祀るか、というのは当人が何も言わない分、残った人々が、ある意味死者の希望を忖度しながらやらないとけないわけで、そこには無限の選択肢があって、それぞれに『こうするべきな』ことと『それは許しがたいほどに常識はずれな』ことがあって、本当にややこしくて、しんどいものなのだな、としみじみ思うのでした。