とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

夫の後始末〜を読んで

曽野綾子は祖母が好きで、母も割と好きで、そんなわけで実家には何冊も著作があり、その流れで私もよく学生時分には読んでいましたっけ。
太郎物語とか結構好きだった。

ある時、なんだか彼女の作品にしてはひどく独善的な内容の小説を読み、その頃だったか、子供を育てながら働く女性に対して随分と上から目線の狭量な発言をしているのを、何かでかで読んで以来、大変申し訳ないけど、”この人も終わったな”と思って読まなくなってた。


今回は、割と評判になっているというので図書館で予約。
予約待ちではありましたが、佐藤愛子ほどではなかったので一ヶ月待ちほどで手に入りました。

久しぶりに読んで、やっぱりこの人の文章は良いな、と思う。
どことなく母や祖母の言葉遣い、なんですよね。
東京で育った人の言葉遣いなのかな。

幸田文とか青木玉も、その言葉づかいにどことなく祖母を思い出させてくれるので好きなのですが、曽野綾子もそんな感じ。

夫である三浦朱門の晩年の有り様と介護の日々を、綴ったエッセイです。

随所に文学者らしい気づきが、医療関係者ではうまく表現できないような言葉使いで書かれていて、はっとさせられます。

老いて、過去の自分の暮らしぶりを忘れてしまえば、退屈も不安もなく、恨みもない穏やかな暮らしになるのだという話。
妙に僻みっぽくて、恨みつらみと怒りを溜め込んだお年寄りを相手にしていると、そういう穏やかなお年寄りもいるのだということに救われる気もする。

性格の変性は、家族が時々ふと匂うように気づくだけで、医師が外来の問診でわかることではない

と言われると、なるほどそういうものなのだろうな、と改めて思ったり。

会話は、老化を測る一つの目安だ。会話は自分の中に一つの生き方があることを認識し、相手は相手で別の世界に生きていることを意識しているときに可能のなのである。しかし老化は、自分の生きている場の自覚を失わせ、相手の生きる姿に興味を失わせる。
だから、老人が言葉少なになったら、一つの危険の徴候である。
そのためには、若いうちから、会話のできる人になっておかねばならない。会話は別に高級な内容でなくてもいい。ただ人間は触れ合う時に、その接点に熱を帯び、すべての精神の滑らかさが溢れ出るものなのだ。

なんて、自分のこととしても肝に銘じておこうと思います。

著者はカトリック信者さんなので、聖書の言葉なども随所に出てきます。聖書に出てくる「心の貧しい者」についての本当の解釈は、初めて知りました。
勉強になったな。

本当は物質的で人情にかけた人、という意味でないのだそうです。
虐げられて、

国家、富、健康、身分など誇りをすべて剥ぎ取られその恩恵を受けず、髪だけしか頼るものの亡くなった人たちを意味する

のだそうです。

この章『老衰との向き合い方』のところと、『奉仕とは排泄物を世話すること』の章は読んでいて、しみじみ深い。

そうなんですよね、奉仕って全然格好いいことじゃない。
老人ホームの庭掃除をして花を咲かせることとか、コーラスを聞かせることなんて(まあ、それだってやらないよりマシなんでしょうけど)所詮は、やっている人の自己満足でしかない。

奉仕というのは他人に対しする行為だが、家族に関していえば、「看病」つまりみとりだ。その看取りの基本は、排泄物の世話なのである

そんな奉仕がちゃんとできるためには、ポリティカリーにコレクトではダメだと、著者は言います。
綺麗事だけ並べたって、うまく行くわけないのよ、時には手を抜き、ちょっとは息を抜き、少しくらいはお互いに(介護する方も介護される方も)イヤガラセをしあうくらいの関係の方がいいのだ、と。

これなんて、実際に自らの手を汚し、体を張って介護してきたから言えること、だと思いました。

後半、キリスト教のお葬式の式次第が書いてあって、キリスト教のお葬式を経験したことないもので興味深かった。
映画ではよく見ますけど、あれって、ごく一部分しか出てこないし。

でも、ハッピーバースデーをみんなで歌うってのは、ちょっとびっくり。
映画なんかだと、蛍の光歌ってたりするから、日本のキリスト教独特なのかもしれないけど。
*ちなみに、後でキリスト教徒の知り合いに聞いたら、歌わないそうです。もっとも、その人はプロテスタントだけど。

ご主人が亡くなった後、著者は介護に使わなくなって空いた時間、普段にもまして花の世話を焼き、そうすることで救われたと書いています。
人は(特に女性は)身近な人が亡くなると、何か生き物の世話をしたくなるものなのかもしれません。

やがて、ご主人がしまっていたへそくりを見つけ、そのお金でふと子猫を購入します。
そうして、その子猫の振る舞いや生きている姿にだんだんと癒されて情景が、さりげなく最後に書いてあって、淡々と夫の死を綴っているようで、やっぱりその喪失感は大きかったのだな、と思いました。

書かれている文章一行ごとに、ハッとさせられるものがあり、この先、母を介護することになりそうな私としては他人ごとでなく、時々は読み返したいものだと思ったのでした。