とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

人魚の眠る家

同名の映画化の原作です。
主演女優の篠原涼子の演技が高評価で、映画の内容もいいらしい。
邦画は普段あんまり見ない方です。
三谷幸喜は割と好きなんですけどね。
なんか邦画ってテンポが合わないと言うか、じっとりしているというか、妙な間が多くてしらけてしまうというか。
あまり見ないくせに偉そうなことを言うのも、いかがなものなのですが。

観に行く予定はないけど、面白そうな話だと思ったので原作を借りてきました。
感想と備忘録も兼ねてネタバレ全開です。


今日のモフ猫





まず、一読しての感想。
ついに日本人も脳死が”人の死”と認識するようになったのだなぁ。
(我ながら上から目線)

かつて、まだ学生だった頃。
当時の生理学の試験に脳死の定義を答える、と言う問題が出た。
まだ、脳死って何?って世間でも言ってた時代です。
『人の死=心臓死、が当たり前じゃない時代が来た』って、教授が医学生相手に講義していた時代です。
もうすでに植物状態、と呼ばれる人々がそれほど珍しくなくなっており、臓器移植も当たり前の医療行為となってきていました。
それに伴う医療経済の問題も出てきていました。

でも、人は皆(ただの学生に過ぎなかった私も含め)、まだ心臓が止まっていない人を”死人”、と認めることには、抵抗があった頃だったと記憶しています。
てか、今でも心臓が止まらないのに”死亡”と診断することには誰でも抵抗があると思う。

でも、小説の中では篠原涼子演じるヒロインを取り巻く人々は、ヒロインの行動を常軌を逸した異常なもの、気持ち悪いもの、と捉えています。

これって、私が学生時代の頃からすると日本人の認識が変わってきたことなのではないかしら。
以前だったら、まだ心臓も動いていて身体も暖かい子供がもう医学的には”死んでいる”なんて言おうものなら、その両親はともかく、祖父母が黙っていなかったような気がする。
それが、娘の死を認めたくないが為に行動が異常な方向へ進んでいく母親、として描かれています。

現実問題として、植物状態の子供を自宅で介護している人は、決して小説上の存在ではありません。
表に出ないから誰も知らないだけで、割と日本全国どこにでも暮らしています。
子供達は、人工呼吸器と胃瘻からの注入食、家族の愛情と介護スタッフの援助により、静かに眠ったままかもしれないけれど、生きて、排泄して、着実に成長をしています。
もちろん、特別学級に入学して学校から先生も派遣されますし、筋力低下を防ぐためのリハビリは無理としても、関節の拘縮を防ぐためのリハビリは、積極的に行われています。
多くは、数年以内に痰詰まりだったり感染症だったりで亡くなり(心臓が止まり)ますが、そこに至るまでは、少なくとも家族や介護をしている人にとっては”生きて”います。

家族は子供達の成長に合わせて服を大きくし、髪が伸びたら切ってやり、季節に合わせて愛らしく着飾らせます。
決してその行為を、所詮は親の自己満足であるとか、もう死んでいるのに気持ちが悪いとか、そんなことを誰も言いません。

子供達の世話を世話をしている家族は、この小説のように、その子の体の機能を維持するために筋肉を動かす装置が開発されていたら、きっと喜んで使うだろう、と思います。
気管切開をしなくても、横隔膜を刺激するだけで呼吸させられる人工呼吸装置があったら、ぜひ使いたいだろう、と思います。

現在使われている人工呼吸器は、ほとんど気管切開を必要とします。
口から入れるよりは、まだその方がトラブルが少ないからです。
とはいえ、喉に穴を開けて管を入れ、その管に機械を接続して呼吸をさせるので、患者さんは常に繋がれている状態になります。
そして、気管に入れた管はそのもの自体が異物ですので、身体を刺激して分泌物を増やします。
その分泌物が痰です。
他にも、直接空気を送り込む為、正常な身体なら鼻の粘膜や口の粘膜が、捕まえて排除してくれるはずの空気中の菌や花粉やハウスダストも、どんどん入り込んでしまい、身体を刺激してそれがまた痰の原因になります。
その為人工呼吸器を使用している患者さんは、常に痰で息が詰まる(空気が通る道=気道)が詰まってしまう危険性があり、痰を吸引除去する必要があるのです。
この吸引除去という行為だけでも、個人差はありますが1日に何回もしなくてはならず、介助の人は患者さんから離れることができなくて、本当に大変です。

そして何より、見た目が痛々しい。

この小説ではヒロインの娘は、最先端の医療と両親の潤沢な財力のおかげで、呼吸器に繋がれることなく、車椅子で外出もできます。
お風呂も入れてあげることができる。
それだけでも、介護も随分と楽になるだろうな、と思うのです。

もちろん、医療経済の点から見ると、脳死状態の患者をいつまでも生かしておくことはどうなのだろう、という議論はあります。
倫理的にも、本当に患者本人の為になっているのだろうか、無用な苦痛を与えることをしているのではないだろうか、という疑問もあります。

以前、救急医療が専門の先生とお話しした時に、やっぱり現場で問題となるのは、小児の脳死の時だ、ということを言われていました。
高齢の方の場合はある程度、『これが寿命だよね』と言えるのですが、子供の場合、特に事故の場合は、なかなかに親や家族だけでなくスタッフも思いきれないものがあるそうです。
脳死に至ったあと、心臓が止まるまでの時間を、親御さんや家族がその子の死をうけいれるまでの猶予時間、と考えることもできますが、彼らが受け入れるための時間を捻出するためだけに、月に数百万単位でかかるICU病棟の費用を、高額医療補助という形で国や健康保険組合が補填し続けることは、どうなのだろう、とも思うそうです。
それにもっと切実な問題として、その脳死状態の子供さんがベッドやICUの医療資源を占拠する事で、他の緊急を要する子供が必要な医療を受けられない、要請があっても断らざるを得ない、ということがあって、そこも割り切れないのだと。

小説では、そちらの面が随分と強調されているような気がしました。

例えば、脳死状態と言われた娘の脊髄に刺激装置をつけて手足の筋力トレーニングをするヒロインを、周囲の人々は異常な行動だと見ます。
義理の父は『気持ちが悪い』『早く成仏させてやればいいのに』とまで言います。
もう一人の子供は小学校でいじめに合います。
理由は、入学式の時にヒロインが『もう死んでいるはずの』娘を車椅子に乗せて参加させたから、です。

でも、身体に障害がある兄弟姉妹を入学式に連れて行って、それがいじめに繋がるなら、学校が然るべく対応すべきだし、それは脳死状態の子であっても一緒、じゃないかしら。
そもそも、『死んでいるはずの』瑞穂は、傍目には眠っているだけの可愛らしい女の子の姿をしているのですから、なんでいじめや批判の対象になるかな。
むしろ、そっちの方が怖い気がする。
頭でこの子は『死んでいる』と理解している方が、見た目と触覚で『生きている』と実感するよりも、正しい、のでしょうか。

日々、とまでは言わないけれど、割と日常的に人の死に立ち合う私のあくまでも私見ですが、”身体の暖かさ”というのはその人が”生きている”ことの大きな印だと思うのです。
亡くなってすぐのご遺体というのは割と暖かいものですが、やはりだんだんと冷たくなっていきます。
ご家族は多くの場合、その冷たくなっていく身体に触れて”ああ、もう逝ったのですね”と実感されます。
だから、暖かくて(その上、心臓が動いている状況で)”死んだ”ということを受け入れるのは、感覚的にはとても難しい。
ましてや、可愛い我が子であってみれば、なおさらです。

だから、脳死した我が子の死を認められないヒロインは、ごく普通の母親だと思う。
脳死していても、家で介護する方法があって、それを支える財力があったのだから、周りもあんまりヒロインを追い詰めなくても良かっただろうに、と思います。

だいたい、脳機能だけが命の源だという決めつけは、かつて心臓に心が宿っている、と思われていたのと大差ないような気もします。
生命についてまだまだわからないことは、たくさんあるのですから。

しかし周囲の奇異な視線と、子供のいじめがきっかけにヒロインは暴走。
ついに家族や警察の前で、娘に刃物を突きつけ、『今、瑞穂の心臓の動きを止めたら、私は殺人犯なの?それとももうすでに死んでいるのだから無罪なの?』
と問いかけます。
(少なくとも死体損壊罪には当たると思うので、無罪にはならないだろう、というのは余計なツッコミでしたね)

そもそもヒロインが暴走した根底には、自分のやっていることが尋常じゃない、というヒロイン自身の自覚もあったからだ、と思うと、ますます、脳死した人間を生きているかのように扱うことがおかしい、と考える世の中に今はなっているのだな、と思う。

けっきょく、その場は『やっぱり娘は生きている』と他の家族が説得というか、同調して、ヒロインは落ち着きます。

そしてその後、ヒロインは淡々と一人で介護を続け、三年後に娘が急変した際には、今度は延命ではなく臓器提供を申し出るのでした。

ストーリーの中で、ヒロインの娘とは別に、先天性の心臓病を持ち渡米して心臓移植を受けるしかない女の子の話が出てきます。
日本の移植医療の現実が、語られます。
結局、その女の子は移植手術を受ける直前に脳死状態となってしまい、両親は子供の臓器を提供することを決めます。

臓器提供した子供の親は、『自分の子供はここには存在しないけれど、誰かの身体の中でまだ生きているのだ』と思うことで救われる。
そんな終わり方です。

脳死した子供は、早くその死を認めてあげて、臓器を必要としている子供に譲ってあげた方が、みんな幸せだよね、というプロパガンダに思えなくもない。
(それが良いとか悪いとか、ではなくて)
そういう意味でも、色々考えさせられる小説でした。