とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

すごいトシヨリBOOK

図書館の新着本コーナーに置いてありました。
タイトルには全然、食指が動きませんでしたが、著者を見て、むむむっとなった。

池内紀といえば、ドイツ文学関係の翻訳をしてた人じゃなかったっけ?
実家にあった外国物の本で、よく名前を見たような気がする。
”紀”の字を”おさむ”と読むって知らなくて、ずっと”いけうちき”って人だと思ってたような。
エッセイもたくさん書かれているのですね。
面白そうだったので、早速借りました。

いわゆる年寄り心得本、です。

思えば、受験生となったら、受験本を読み、
妊娠がわかったら、育児本を読み、
何だか人生に疲れてきたな、と思ったら、自己啓発本に手を伸ばし。
と、人生のほとんどの時期で、”心得本”のお世話になってきてました。

なんだかんだ言って、人生も半分を過ぎ、後半戦に入ってまいりましたし、いよいよ次は”年寄り心得本”に手が伸びる番でございます。

雑誌の特集なんかだと、妙に元気でお年寄りっぽくないお年寄りばっかりで、こんなに元気なお年寄りにならんといかんのか?と不安になるのですが、こちらの本は、もう少し肩の力が抜けたものでした。

著者によると、だいたい70歳くらいになると、老人感を実感するようになるそうです。
そして、著者は70歳になった時に、ノートを作り、”すごいトシヨリBOOK”と名付け、『老いる自分』を観察した記録をつける事にします。
ネーミングの良し悪しは、置くとして、面白いと思ったのはその時に著者が77歳を自分の寿命として、77歳からあとはもう存在しないという想定のもとに、計画を作ったというところ。
七年後には、この世にはいないわけだから、今のうちに行っておきたい所、やっておきたい事、というのをリストアップしたのだそうです。

確かに、いつかそのうち、と思っているうちに実行できないままに過ぎてしまったことのいかに多いことか。
期限があると、思い切って実行に移しますものね。

さらに面白かったのは、現実に77歳になった時には、さらに期限を三年刻みで延長する事にしたこと。
別に、絶対に77歳で死ななくてはいけないわけではないので、期限延長したっていいわけです。
三年毎というのが、なかなかに絶妙な時間の取り方だな、と思うけど、実際に自分がその年になったら、三年毎でいいのかどうかはわからない。
期限なんか決めない方がいい、と思っているかもしれないし。
でも、こういう考え方がある、と知っているといざ、自分が歳をとってきた時に役に立ちそうです。

歳をとると、言葉を忘れる。
新しい言葉が覚えられない。
そうして、言葉に見捨てられると不機嫌になる。
のだそうです。
これは、著者が翻訳を始め言葉を扱うことを生業にしているからかもしれませんが、コミュニケーション能力の高いお年寄りは認知症になりにくい、と言う話もあります。
言葉をちゃんと使えるように、日々メモを取り、新しい言葉を覚える努力を怠らない姿勢は見習うべきだ、と思いました。

また、老人は過去を捏造する。
と言う部分。
なるほど、思い当たる、当たる。
まだ、著者の言うところの老人ではありませんが、私も、子虫の前では、自分の学生時代を少々、脚色している気がする。
自覚があるうちは、まだ、罪が軽いけど、それを真実だと信じるようになったら、終わりだな。
気をつけよう。
でも無意識に”こうありたかった自分”を捏造することで、幸せな人生を再構築できるのかもしれないから、ちょっとくらいは、許してあげてもいいかもしれない。

老後のお金の不安を解消するために、お金を意識しないで暮らす工夫、と言う章は、あまりと言うか、全然、参考になりませんでした。
お財布に、決まっただけ入れておいて、定期的に補充するって、余計意識して暮らすことになりそうだけどな。
お金を使わない生活をすれば、確かにお金を意識しないで暮らせるし、お金の不安もないだろうけど、現代の日本で生活しようと思ったら、お金を使わない生活なんて、無理。
お金の問題は、ずっと付いて回る事なのだ、と割り切るしかなさそうです。

年寄りこそおしゃれをしよう、とか、見た目もだけど匂いには気を使おう、とか、ある程度歳をとったら、もう健康診断を受けるのはやめよう、とか、まったく私も同意見でございます。

病と死についての章では、自分で受けたい治療の範囲を事前に決めておこう、最期にされたくない処置について、はっきり書き記しておこう、と書かれてます。
ほらね、リビングウイルとかファシリテーターとか、ややこしいことを言わなくても、普通にそう言うことを考えている人がちゃんといるじゃない、って思ったら、著者自身、尊厳死協会の会員でした。
こんなところで、尊厳死協会。
意外と、ちゃんと活動していたのね、尊厳死協会って。

され、高齢者にとって時に深刻になりがちなのが”シモ”の問題。
訪問で行く施設や御宅でも、本人含め、部屋の中の匂いがすごい方は少なくない。
著者は、ユーモアたっぷりに『アントン』と名付けているそうです。
英語でディックって呼んだりするのと一緒かしら。

『また行くの、アントン」とか、「えっ、もう終わったんじゃないの」って話しかけると、「いや、まだまだ」アントンが答える。アントンと対話しながら用を足すというのが多いです。
「アントンが呼んでるからちょっと行ってくる」とか「今日のアントンは何か元気がないんだよな」という風に言ったりもします。
だから、アントンの経歴書とかね、書いてみたりもしました。アントンというのは、若い時は元気だけど、歳をとると元気じゃなくなる。元気な時は「張り切り大王」「モリモリ先生」「頑張り屋さん」「放蕩息子」、現在は「しょんぼりくん」うなだれの君」「退役軍人」「おチビさん」なんて呼ばれたりもする。

なんて、飄々と書かれています。

私も真似して、目障りな”部分”を人格化して呼んでみようかな。
人呼んで、シモバラさん。
下腹と言うと、なんだか即物的ですが、片仮名でシモバラさん、と呼ぶと、ちょっと現実感が弱まる気がする。
シモバラさんは、もう随分と長い付き合いの友達のおばさん。
若い頃は、色々と手厳しくて、身の程知らずの無理もよくしてた。
食い込むようなサイズのジーンズだって、苦しくても頑張って履いてた。
もう最近はすっかり現状に甘んじてます。ちょっと現実受容度が高すぎるかも?
ぼんやり屋さんで、うっかりすると、どぉ〜んと場所をとっていて、すごく邪魔になっていたりする。
そう言う時は、『シモバラさん、また邪魔っ』って言うと『あ、ごめんなさい』って引っ込もうとするんだけど、なかなかうまくいかないの。
ちょっと気を緩めると、またその存在感が増している。
だけどあんまりうるさく言うと、『もうしょうがないでしょ、出てるんだから多少ははみ出ても!』切れたり。
気弱で、申し訳なさそうにしているくせに、意外と自己主張もしたり。
映画フライド・グリーントマトでキャシー・ベイツが演じたエヴリンのイメージです。
そして『ちょっとは協力してよ』と頼むと、『うん、いいよ』と気安く言う癖に、空腹に弱いし、ちょっと美味しいものを見るとすぐに『いいじゃない、ね、今だけ』と妥協したがる。
困ったものですシモハラさん。

なんてね。

なんだかんだ言って、やっぱり頭がしっかりしていること、身体がしっかりしていること、この二つが大事。
そしてよりどちらが大切か、と言うと、だな。
普段、お伺いするお年寄りも、身体がしっかりしていても認知が進むと、徘徊になったり、問題行動があったりで大変。
本人も、自分がどこかおかしい、と言う自覚があったりするので、可哀想なことも多いです。
頭さえしっかりしていたら、多少、身体に不自由があっても工夫したり、考え方を変えたりして柔軟に対応すれば、それなりに幸せに過ごしていけます。

頭がしっかりしたまま年をとる方法?

それがわかればいいんだけどな。