とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

PPKよりPPnK

いつぞや一世を風靡したピコ太郎ネタではありません。
よく巷で言われる”ピンピンコロリ”、略してPPK。
『願わくば、PPKで逝きたいよね』とか『理想はPPKです』などというように使われてますね。

でもね、いわゆる終末期、に関わっていると、このPPKってのもどうかしらね、と思ったりもします。

以前読んだ本にも、PPKで突然死なれると、残された遺族が実けっこう大変な思いをすることになる、という話が載ってましたし。

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実際、昨日まで元気だった人が次の日、突然に亡くなっていたりすると、何か事件でもあったのではないか、という物騒な話になったりもします。
たとえ、施設や病院にいたとしても、家族が介護していたとしても。

実際に、職員や看護師による犯罪もありますしね、家庭内暴力による虐待だってあるし。
残念ながら、現実にそういう悲しいことがある以上、もしかして、うちのおじいちゃん/おばあちゃんの場合も?という疑惑が生じてしまうのは、仕方ないこと。

だから、”PP”と”K”の間に、ぴんぴんところりの間に、ちょっとだけ”n”の時間を挟むと良い、というのが私の意見です。
この場合の”n”はちょっと『寝込む』の”n”であり、寝込んで家族が慌てて駆けつけて、看病するうちに『仲良し』になるの”n”です。

親孝行な優しい子供だって、一旦家を出て独立したら、結婚して家庭を持ったら、意外と疎遠になるもの。
特に、鹿児島のように地方だと、首都圏に行ってしまってそのまま都会で暮らしてそのままかえってこない子供世代もたくさんいますし、そういう人たちは、親とは感覚からして違ってきます。
いつの間にか、会う時間も少なくなり、考えることもずれてきたりして。
親の余命があと20年としても、年に一回、帰省するかどうかだったら、一緒に居られる日数は一ヶ月にも満たない、という話もありますし。

『いつか』は、突然やってきます。

そんな時、『危篤』という連絡を受けて帰ってきたらもう亡くなって居た、となると、やっぱり色々と心残りも出てくるでしょう。
それが、『もうだめだ』というところから、しばらく寝付いている状態だと、集まった兄弟姉妹で、看病したり、お互いの気持ちや本人の気持ちを話し合ったりという時間が持てます。
『せめて、今できることだけでもしようよ』という話になって、ばらばらだった家族が何年振りかで、一致団結してことに当たっているうちに、また昔を思い出して、家族としての絆を確かめ合う良い機会になりました。
などとという、話をよく見聞きします。

病人のために家族が協力しあって、また絆を確かめあえる時間を、うちのクリニックの院長は『仲良し時間』と呼んでます。
なかなか良いネーミングだと思ってます。
どんなに仲のより家族でも、兄弟姉妹でも、それぞれに家庭を持ったり独立したりで、自分の世界が出来てきて、親元で一緒に居た時間より、自分の世界で生きてきた時間が長くなると、何とはなしに、その考え方の中にズレは生じてくるもの。
そこを一緒に過ごして協力し合うことで、また絆が、出来てくる。
そんな『仲良し時間』ですが、長すぎるとやっぱり弊害が出てきます。
介護疲れも出てくるし、仕事や家庭の都合で長くは一緒に居られないという事態もあるし。

ちなみに、終末期であと数日、という状態で駆けつけた家族からよく聞かれるのが、『あと何日か?』ということ。
そんなことは、神様にしかわからないことなのだけれど、今のご時世、いついつまで休みます、と言わないと休みももらえません。

今日、明日かもしれないし、明後日かもしれない。
もしかしたら、一旦持ち直して、来週かも。
なんて、曖昧なことを言って許してはもらえない職業人が、私も含めてほとんどです。

看護だって終末期ともなると、『寝てて良いのよ、休憩も取りなさいよ』と言われて、はいそうですか、とぐっすり眠れる家族は、普通いません。
みなさん、夜も寝ずに看病して、あるいは病室に付き添って、だんだん疲れが見えてきて、目つきが悪くなり、言葉がトゲトゲしくなっていきます。
これだって、仕方のないことです。

とういう事情を鑑みていくと、『仲良し時間』はだいたい一週間から十日くらいがちょうど良い、というのが私見です。

というわけで、長く寝込むわけではないので、小文字のn。
PPnK。
ぴんぴんですぐころり、じゃなくて、ちょっとだけ”粘って”(のnでもあります)”寝込んで”、”仲良し時間”を家族に持ってもらって、それからあんまりしんどい思いもしないで、ころり。

これが私の理想、です。