とりあえず始めてみます老いじたく

ねんきん定期便をきっかけに老活してみることに

エリザベスの友達

認知症のおばあさんとその娘二人とのお話です。

おばあさんは、有料老人ホームに入っていて、認知症が進んだ結果、自分が一番幸せだった時代に戻ってしまっており、娘も娘と認識できない。
ホームには同じように、自分が一番輝いていたらしき時代に戻ってしまっている老婆があと二人出てきます。

それぞれのおばあさんには、家族が面会に来て主人公の娘たちと話をしたり、世話をしたり。
彼らの会話と、老婆たちの夢のような世界とが交差して、ちょっと現実感のない、ふわふわした感じのお話がとりとめもなく進んでいく。
これといったオチも、カタストロフもないストーリー展開で、好き嫌いが分かれそうな気がする作品です。
私は、割と好き。

舞台が北九州で、主人公のおばあさん自身が引揚者なので、戦時中の大陸での日本人家族の話や、引き上げ時の話などが、登場する幾人もの人の口から語られます。
その辺のトリビアルな話も、興味深い。
租界つながりで、愛新覚羅溥儀とその妻の話も出てきます。

主人公のおばあさんを、作者も、娘たちも”お母さん”とは呼ばずに”初音さん”、と呼んでいます。
他のおばあさんたちの家族は、固有の名前はなく”土倉牛枝さんの娘さん”、と記載されている。
そんなところが、なんとなく現実からかけ離れた感じを醸し出している気がします。
非現実的なシーンが、突然日常生活に割り込んできたりと、全体的に舞台劇を見ているような感じです。
会話もちょっと説明口調で、劇のセリフみたい。

介護の現場は、しんどいことも多いし、ましてや身内となると今までのあれやらこれやらがごっちゃになって泥々と嫌なものが出てきがちなので、こんな風にふわふわしていてくれた方が読みやすい。

さて、初音さんの一番輝いていた頃。
それは、天津の租界で駐在員の妻として暮らした日々で、当時の日本女性としては、かなり恵まれた暮らしでした。
妻たちは、西洋風にレディ・ファーストの風潮の中で暮らし、お互いにイングリッシュネームをつけて、サラとかヴィヴィアンとか呼び合い、お茶会を楽しんでいます。
そして、同じように赴任してきた英国や仏国の婦人たちとも交流もしていた。

現実は、そんなに能天気でもなかったのでしょうけど、そこはそれ、年寄りの朧な記憶の世界ですから。

対比して語られる土倉牛枝さんの記憶の世界や、宇美乙女さんの記憶の世界は、当時の日本女性の置かれていた厳しい日常生活ですが、それすらもどこかおぼろで、ふわふわとそれなりに幸せそうです。

初音さんは、半分以上、昔に戻ってしまっていて、実の娘の見分けもつかない。
財産を全部放棄し苦労して連れ帰った長女は、”知らない怖い人”だし、ずっと親身に世話をしてくれる次女は、いつか家で使っていたメイドになってしまっている。

そんな風に、いろいろなことを忘れていく年寄りたちを、”魂が人から剥がれ落ちていく”と表現していて、私はまだ実の親を認知症で介護したことがないけど、いつかそんな風に思い当たるのかな、と思ったりする。

母親に食事の介助をする合間に、持参した冷めたい弁当を食べる娘のシーンで

昔はよく親の恩と言っていたが、今、千里がこうして初音さんにものを食べさせている事は、親が幼い子供にしていた事である。その、親に食べさせて貰っていた期間は三、四年くらいだろうか。けれど子が老親の口に食べ物を入れてやる期間は、親が長生きする分だけどこまでも伸びる。今は認知症の親を看て十年などという話はざらだ。

と語られます。
さらに、娘は考えます。

子育てが大変なのは小学校低学年くらいまでだろうか。長くはあるが、言う事を聞かなければ親は子を撲つことも出来る。だが認知症の親を子供は撲つわけにはいかない。
親の恩があるなら、子の恩だってあるのだ

この辺りは、介護している子世代の叫び声のようにも思えます。
子供世代だって、十分親に恩をかけている、と言うフレーズは、作品を通して何度か出てきます。
確かに介護の日々は、ある意味、親に恩を返している日々でもあるけれど、時に返済の方が大きくなっていることもあるよな。
だけど、子供世代が失った時間は過払金のように、返してはもらえません。

とはいえ、やっぱり親は要る。

混沌の生命の海から人の形をしたものを生み出す役割は、ほかならぬ親しかいないわけだ。

この辺りを読むと、あまり認知症で周りを煩わせずに、ぽっくり逝きたいものだ、と思います。

一方、娘たちの気持ちをよそに、初音さんは、順調(?)に過去の世界に入ってしまい、戻ってくることがだんだん少なくなっています。
そして、駐在員妻の仲間内ではサラと呼ばれていたはずの、初音さんが『あたくしはエリザベス』と言い出して、娘たちは困惑します。

だれ?エリザベスって。

この一件が表題にもなっているのですが、結局、その謎ははっきり解けないままに終わります。

誰がエリザベスなのか、なぜエリザベスなのか。

そこんとこは、『読んだ人が好きに、想像してね』ということなのでしょう。
そんな風に、読み手に結論を、ひょいと投げてくるところも、私は好きなのでした。